書冊の山より:第7回 高松宮宣仁親王『高松宮日記』(1)
... 戦争にたいする異議を天皇に奏上したのだと記したのだが、いったい、公刊された高松宮日記にはそれについてどのような記述があるのか。 それについては次回で述べたい。 高松宮宣仁親王『高松宮日記 全八巻』(中央公論新社、平成九年十二月最終巻発行 ...

書冊の山より:第8回 高松宮宣仁親王『高松宮日記』(2)
... 記述の無い日、記述の無い月は、各巻随所に見られるが、ここは微妙な時期なので、特にそのことを明記しておく」 高松宮日記についてはさらに次号で論述する。 高松宮宣仁親王『高松宮日記 全八巻』(中央公論新社、平成九年十二月最終巻発行) 次回更新 ...

書冊の山より:第9回 高松宮宣仁親王『高松宮日記』(3)
... 即座にそう気づいたにちがいなかった。どのようにして木戸は見過ごすことができないはずのその啓示を頭脳から葬り去ることができたのであろう。 高松宮宣仁親王『高松宮日記 全八巻』(中央公論新社、平成九年十二月最終巻発行) 次回更新予定日 9月 ...

国内最大の足を触った事ありますか?
... 競馬の高松宮記念などで お馴染みの故・高松宮宣仁親王が 門の奥に見える松は、今は民間人となった 紀宮清子さんが、お手植えしたものだそうだ。 長谷寺 posted by (C)YOSHIYU機 紅葉 は終わりかけ ...

HAPPY BIRTHDAY 三笠宮崇仁親王
... 高松宮宣仁親王から10歳も年下(昭和天皇とは14歳の年の差)の末っ子のため大正天皇と貞明皇后の意向で3人の兄宮と違って御所で育てられた。 学習院初等科、中等科を経て、1932年(昭和7年)陸軍士官学校に入学。 ...

高松宮 宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、(1905年(明治38年)1月3日 - 1987年(昭和62年)2月3日)は、大正天皇の第3皇子、昭和天皇の同母弟。母は貞明皇后。妃は公爵徳川慶久の次女宣仁親王妃喜久子 喜久子。勲等・金鵄勲章 功級は大勲位功四級。最終階級は大佐 海軍大佐。墓所は豊島岡墓地、墓碑銘(縦書き)は「大勲位宣仁親王」。
1905年(明治38年)1月3日、当時の皇太子嘉仁親王の三男として青山東宮御所で誕生。幼称を光宮(てるのみや)といった。
高松宮は四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮家の祭祀を継承したのには故がある。1913年(大正2年)、有栖川宮10代有栖川宮威仁親王 威仁親王が後嗣・栽仁王に先立たれたまま危篤となったが、当時すでに皇族の養子縁組は禁じられていた(養子縁組そのものは出来たが、それを行った時点で臣籍降下を余儀なくされた)ため、有栖川宮家の断絶は決定的となった。しかし、有栖川宮幟仁親王 幟仁・有栖川宮熾仁親王 熾仁・威仁三親王の幕末以降の功労に鑑んだ大正天皇が、威仁親王の死去に先立ち特旨をもってまだ成人前であった第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与えたことで、有栖川宮家の祭祀は受け継がれた。その時から、威仁親王の外孫にあたる徳川喜久子(1911年生)と、宣仁親王との婚姻が約束されたという。
高松宮宣仁親王の詳細